資本主義と創造性と

資本主義社会においては資本家と労働者の格差は広がる一方である。

 

労働者が30万を稼ぎ、資本家が10万を搾取する。

 

極めて単純な論理である。

 

労働者は資本家から与えられる仕事をする。

その構造上労働者が創造性を発揮する機会というのは少ない。

 

もし真に創造性ある仕事をしたいというのであれば、自らの内側から湧き出る衝動に従い、それをなんらかの形で表現することである。

 

それは文章でもよいし、物理的な作品でもソフトウェアでも音楽でもよい。

 

アインシュタイン相対性理論ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟、釈迦の「空」、ダーウィンの進化論、ゲーテの若きウェルテルの悩み、マルクス資本論、、、

こういった仕事は誰かにやれと言われてなされたものではない。

 

彼らは自らの内発的動機に突き動かされ、かの偉大なる仕事をやってのけたのである。

 

やりたくもないことを他人に押し付けられた時、人間の創造力は限りなく0に近づく(場合によっては「どうやってやらずにすませるか?」を考える方に創造力を働かせるようになる)。

 

では、内発的動機による行為とはどんなものだろうか?

 

それは、たとえそれをやっても一銭の得にもならず、社会的意義は全くない上、他人の評価があがるわけでもないのにも関わらずやりたいという行為である。

 

「やりたいから」

 

それ以上の理由が見つからないのであれば、それは内発的動機と言えるのかもしれない。

 

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「与えられる」人生と「創る」人生

文章を書きたい。

 

なぜかは分からないが、ひたすらに文章を書きたい。

 

内発的動機というのはこういうものなのだろうか。

 

頭をフル回転させて創造的な仕事をする10年と、与えられたことだけを受動的にやる10年を送った人間の間にはどのような差が生まれるのだろう?

 

体の内から湧き出るような衝動にかられ、素直にそれに従い創造力を発揮する人間と、仕事も給料も消費財も動機も全てを「与えられて」生きている人間はどのように違ってくるのだろう?

 

私はこの10年を使って実験をしてみたい。

 

読書というのは受動的行為である。

人が書いた文章を目で追い、頭で理解することがその仕事である。

 

しかし、文章を書くこととなるとこれは創造性ある仕事である。

 

自分の頭にあるものを言葉にして紡いでいく。

 

なんという言葉をどのように繋げていくかは全て書き手に委ねられている。

 

これは読書という行為とは一線を画する。

 

読書によって人間の中で様々な内的変化が起こる。

多様な考えや思想を頭に通すことで彼/彼女の精神構造が変わってくる。

 

それがある程度まで煮詰まってくると、文章に吐き出して表現したいという衝動にかられるのではないか。

 

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