「問い続ける」ことの意味
「ある」とは何か?
死とはどういうことか?
人生に意味はあるか?
「善い」とは何か?
こういった答えのない問いを問い続けるのが哲学の営みである。
(おそらく)これらに対する普遍的な、絶対的な、誰もが納得のできる解答は存在しない。
そうとわかっていながらも問い続けずにはいられない、ある種病的な人種が哲学者である。
答えの見つからない問いを問い続けることが哲学なのであるから、それと逆行する行為は全て非哲学的行為となる。
例えば自殺。
これは問い続けることをやめる決断、思考停止のための手段なのであるから最も非哲学的な行為と言ってよい。
断定。
これも非哲学的である。
断定はそれまで積み上げてきた思考で満足すること、それ以上の前進をやめにすることなのであるから非哲学的である。
思想。
これも哲学ではない。
「上司の言うことは絶対」「他人には親切にしなければならない」「健康第一」こういったものは全てある種の思想であり哲学ではない。
哲学的に考えるのであれば上司(いや全ての他人)の言うことは1から10まで疑わなければならない。
他人に親切にしなければならないのはなぜかと問わねばならない。
不健康が本当に悪なのかを考え続けねばならない。
哲学においてはたとえどれほど苛酷な問いでもそれを禁ずることはルール違反である。
なぜ人を殺してはならないかという問いを禁じてはならない。
なぜ差別をしてはならないかという問いも禁じてはならない。
なぜ人類を絶滅させてはならないかという問いすら禁じてはならないのである。
「普通の」感覚を持つ人間ならばそういった問いを立てること自体に強烈な不快感を抱くような問いすら禁じてはならないのだ。
よって哲学はその性質上反社会的な側面を持つ。
その上これを問い続けたところで(おそらく)揺るぎない解答は得られないだろうし、実感を持って自分が納得できる答えを見い出せたところでただそれだけである。
だが、これを問い続けることでたとえ最初はどれほどひ弱でも少しずつ「考える力」が鍛えられてくる。
ものを考える持久力がついてくる。
腐敗臭がするほど世に溢れかえっているウソ・「常識」・欺瞞を見破れるようになる。
自分なりの「哲学」ができあがってくる。
私はそこに哲学の「オモシロさ」を見出すのである。
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