「やりたいこと」を見つけるには
「やりたいこと」というのはどのようにして見つかるのだろうか?
人間は人生の選択を必ずしも自分のやりたいことに照らして決めているわけではないが(やりたいと「思わされている」ことを選択しているというのは往々にしてあるようである)、やりたいことをやっている時間の割合が増えれば増えるほど彼/彼女の人生は充実度を増すであろう。
「やりたいことがある」という前提に立って話すと、そのやりたいことをやっている時間の割合を増やすには(当たり前過ぎることではあるが)、そうでない時間を削ることである。3—1=2というほどに当たり前過ぎてつまらないようなことであるが、これを意識するとしないでは1日の過ごし方が大きく変わってくる。
1日の労働時間が8時間としよう。仮にこの8時間は本当に自分のやりたいことではないとする。これを24から引くと残るのは16である。あとはこの16をどのように配分するかという話なのであるが、固定費として大きく変えることができない、あるいはそこを削りすぎると健全なる生活を持続的に送れなくなるものがある。睡眠と食事である。個人差はあるものの、これを7時間として16から引く。すると残りは9である。その他通勤やら風呂やら手洗いやらの雑費として2を引くと、最終的な余りは7である。この7を何に当てるかが大きな問題だ。日中の仕事を漫然とやって残り時間を残業に割くのであれば自由に使える時間はその分減る。行きたくもない人との食事や集まりに行くのであればそれを差し引いて残る分はごくわずかなものとなる。こういったものを出来る限り排除し、かつ固定費を他に支障が出ない範囲で下げる。これを実行するならば、自らが支配権を握る時間が我々の人生の割合で大きくなっていく。
では、最初の問いに戻ろう。「やりたいこと」を見つけるには?
これは、「実際にやってみる」ことの他には無さそうなのである。
知識としてその対象がなんたるかをいくら頭の中に詰め込んだところで「実際にやってみた実感」は感ぜられない。
なぜなら、知識を頭に詰め込むことと「実際にやってみる」ことはスポーツと学問ほどに異なるものだからである。
人間はやらずしてやった実感を感じることはできない。
水の中を泳がずして水泳の楽しさがわかるわけがないのと同じことである。
いくら水泳についての知識を書物から取り入れたところで、実感に泳がないのであれば水泳をやった時の実感は得られない。
水の中を泳いでみて初めて楽しいとか、つまらないとか、呼吸が苦しいとか、うまく進まないとかが感ぜられるのである。
しかし、インターネットが発達し情報の洪水に流されている現代人はどこからか拾ってきた知識をもとに「それはだいたいこういうものである」と演繹しわかったつもりになることがしばしばある。
自分の経験と頭に詰め込んだ知識だけをもとにある事柄を決めつけてしまうのである。
こうしてなんでも知っている「かのような」人間が量産される。
そして自分にはやりたいことがないと嘆き、路頭に迷う者が増えるようなのである。
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